
予科練について
予科練とは
予科練とは海軍飛行予科練習生の意味であり、
大日本帝国海軍における航空兵養成制度の1つです。
14歳半から17歳までに少年を全国から身体検査や飛行適正
などの試験により選抜し、搭乗員としての基礎訓練をしました。
予科練に入れば学問を学べるだけでなく給料が支払われたので
貧しく勉強をすることができなかった少年たちも志願しました。
終戦までの15年間で約24万人が入隊し、
うち約2万4千人が飛行練習生過程を経て戦地へ赴きました。
終戦が近くなると、特別攻撃隊に編成された人も多く
戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。
選抜試験
試験には第一次試験と第二次試験がありました。第一次試験
は、各都道府県の各地に設けられた試験場に、海軍徴募官が派遣され
、学力試験が実施されました。昭和五年に発足した乙種の試験を
例にとってみると、受験資格は現在の中学二年相当でした。
学力試験を見てみると、その内容は高等小学校卒業程度の問題でした。
二次試験
・身体検査
身体検査の基準は、一般の海軍志願兵よりも厳しく、つぎの ようなものでした。

肺活量を量っているあたりに時代を感じますね。
・適性検査
適性検査は、平衡感覚や、航空兵として必要な適正を審査する
もので通常の知覚能力、運動神経、判断力等があれ ば合格可能 だ っ たそうです。
試験は検査機材を所有している横須賀や、土浦海軍航空隊
が検査場として使われたそうです。
予科練の始まり
第一次世界大戦前後、航空機の軍事利用の可能性が
注目され始め、欧米諸国の開発競争が激化しました。
日露戦争で装備の立ち遅れにより多くの犠牲を出したことから
軍備の近代化を進めていた日本にも飛行機の情報は伝わり、
航空戦力の導入が進められました。
そして、若いうちから航空機の操縦技術などを訓練することに
より熟練の操縦士を育成する目的で昭和五年、全国から志願者を募り、予科練が始まりました。
特別攻撃隊について
昭和十七年後期のソロモン海戦、昭和十八年のカダルカナル島沖航空戦、ブーゲンビル島沖航戦、昭和十九年のマリアナ沖海戦と、度重なる消耗戦により日本の前線は後退し、日本海軍は実質的に航空戦力を失った。
昭和十九年、米軍のレイテ島上陸作戦により、フィリピンの飛行場にて特攻隊員十三名が志願により選出され「敷島」「大和」
「朝日」「山桜」の四隊が、初めての本格的な特別攻撃隊として編成された。その後も多くの予科練生が特攻隊に志願し、その命を散らしていった。